ローマ人への手紙 7:7-25 JCB

ローマ人への手紙 7:7-25

私が、律法は悪いものだと言っていると思いますか。絶対にそんなことはありません。それどころか、律法が私の罪を明らかにしてくれたのです。もし、「むさぼってはならない」出エジプト20・17という律法がなければ、私は自分の心にあるむさぼりを知らなかったでしょう。 ところが罪は、この律法を逆用して、このような欲望が悪いことをわからせながら、かえって、あらゆるむさぼりを、私のうちにかき立てました。律法さえなかったなら、罪を犯すこともなかったでしょう。 私は、律法が何を要求しているかを知らなかった時には罪の自覚がありませんでした。しかし真実がわかった時、自分が律法を破っており、死を宣告された罪人であることがはっきりわかりました。 それで、私にとって、本来いのちの道を示してくれるはずの戒めが、かえって死の罰を科すものになってしまいました。 罪は私をだましたのです。神の戒めを盾に取り、私を死罪に定めたのですから。 しかし、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、良いものです。

けれども、はたして納得できますか。私に死をもたらしたのは、ほかならぬ律法なのです。だとしたら、どうして律法が良いものでありえましょう。律法を利用して死罪をもたらしたのは、悪魔的なこの罪なのです。罪がどんなにずる賢く、恐ろしく、いまわしいものかわかるでしょう。自分の悪い目的のために、ぬけぬけと律法を利用するのですから。 本来、律法は霊的なものであり、問題はむしろ罪ある私にあります。私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているのです。

まだ心の中にある罪との戦い

私は自分のしていることがわかりません。ほんとうは正しいことをしたいのに、できないのです。反対に、したくないこと、憎んでいることをしてしまいます。 自分の行いが誤っていること、律法は良いものであることが、私にはわかっています。 ですから、したくないことをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに巣くっている罪なのです。

古い罪の性質のために、私は自分が腐敗しきっているのを知っています。正しいことを行いたいのに、どんなにもがいても、できないのです。 良いことをしたいと思ってもできず、悪いことをしないように努めても、どうしてもやめられません。 自分ではしたくないことをしているとすれば、問題点は明らかです。すなわち、罪がなおも私をしっかり捕らえているのです。 正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう、そういう法則があるように思います。 新しい性質をいただいた私としては、神のご意思どおり行いたいのですが、 心の中に潜む悪い性質には別の力があって、それが私の心に戦いをいどみます。そして、ついに私を打ち負かし、いまだに私のうちにある罪の奴隷にしてしまうのです。私は、心では喜んで神に従いたいと願いながら、実際には、相変わらず罪の奴隷となっています。

これが私の実情なのです。ああ、私はなんとみじめで哀れな人間でしょう。いったいだれが、この悪い性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。しかし、主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にしてくださったのです。

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